よくある現場の風景
月曜日の朝9時。事務所の電話が鳴り始めます。「来週から1人入社するんですが、何を用意すればいいですか」「パートさんの社会保険って、どこからが対象でしたっけ」「辞める人の書類、いつまでに出せばいい?」。所長は電話を受けるたびに、作りかけの書類から手を離します。
電話を切ったら、案内のメールです。入社の手続きなら、本人に書いてもらう書類、会社で用意する書類、期限。前に別の会社へ送ったメールを探してコピーし、名前と日付を直して送る。それでも顧問先ごとに雇い方や事情が違うので、一から書き直すことも少なくありません。
月末には、届いた書類の確認が待っています。扶養の書類に添付が足りない、記入のない欄がある。不足を見つけては電話かメールで催促し、届くのを待つ。面談で聞いた話は所長の手帳に書くだけなので、職員が同じことを顧問先に聞き直してしまうこともあります。
小さな事務所が、これだけの仕事を回しているのは珍しいことではありません。全国社会保険労務士会連合会は、2024年度に全国の社労士を対象にした実態調査を行っています。その結果では、事務所の従業員総数は「1人」が56.4%で、社労士が職業生活で感じる不安やストレスとして「業務量の多さ」が当てはまるとした割合は60.8%でした1。
AIを入れると、こう変わる
電話は、これまでどおり所長か職員が受けます。変わるのはそのあとです。受けた職員が「C社、来週入社1名、パート」と要点をメモに残すと、AIが事務所の回答例と必要書類の一覧をもとに、案内メールの下書きを作ります。名前は入れず、記号で扱います。
所長の仕事は、下書きを確かめて直すことです。「この会社は働く時間が条件の境目に近いから、もう一度確かめてもらおう」「期限は今週中と強めに書こう」。一から書くのではなく、直すところだけ考えればよいので、このモデルケースでは返信にかかる時間が目安で半分ほどになります(よくある質問の回答例がそろっている場合)。
月末の書類確認も変わります。届いた書類の名前を一覧にしてAIに渡すと、手続きごとの必要書類の表と照らして、足りないものの候補と、催促の連絡文の下書きを出します。面談のあとは、所長が話した要点をスマホに吹き込むと、決まった形式の面談記録に整えられ、事務所の共有フォルダに残ります。
回答例と記録がたまるほど、職員が下書きを作り、所長が確かめる、という分担がしやすくなります。所長は、判断が必要な相談や、顧問先の経営者とじっくり話す時間に手を回せるようになります。
やってみると、こうなる
顧問先のメールから、返信と必要書類の案内を下書きする
入力は架空の例です。出力は、生成AIで実際に試した結果を短くしたものです(毎回少しずつ変わります)。
AIに渡すもの
AIが返してくるもの
AIの下書き返信メールの下書き(社労士が確認する前のもの)
C社 D様 いつもお世話になっております。ご連絡ありがとうございます。 Eさんの入社の手続きについて、ご用意いただくものをご案内します。 ■ Eさんに書いていただくもの ・入社連絡票(当事務所の様式です) ■ Eさんからお預かりいただくもの ・基礎年金番号がわかるもの ・雇用保険の被保険者証(前の勤め先で雇用保険に入っていた場合) ■ 会社でご用意いただくもの ・労働条件通知書(雇用契約書)の写し そろったものから、入社日までにお送りください。写真やスキャンでもかまいません。 パートの方が社会保険に入るかどうかは、働き方の条件をうかがったうえで確認し、あらためてご連絡します。お手数ですが、週の所定労働時間、時給(または月給)、雇用の期間の見込みを教えていただけますか。 どうぞよろしくお願いいたします。 【社労士に確かめてほしい点】 ① 週4日・1日6時間の予定での、社会保険・雇用保険の加入の判断 ② 入社が来週の月曜日のため、提出の期限を「入社日まで」とした書き方でよいか
人が見て直すところ
- 社会保険・雇用保険の加入は、所長が働く時間などの条件を確かめて判断し、返信に書き足す(AIの下書きでは答えていない)
- 期限の書き方を顧問先に合わせて直す(例:入社が近いので「今週中に」と強めにする)
- 記号(C社・Dさん・Eさん)を本当の名前に戻すのは、送る直前に人が行う
自分で試してみる
ChatGPT・Claude・Gemini などに、下の指示文と例をそのまま貼りつけてください。無料版でも試せます。お客さまの名前や住所など、本物の情報は入れずに、この例のまま試してください。
AIへの頼み方(指示文)を見る
あなたは社会保険労務士事務所の事務のアシスタントです。 次の顧問先からのメールに返す、返信の下書きを作ってください。必要書類は、下の「事務所の案内リスト」をもとに案内してください。 条件: ・社会保険や雇用保険に入るかどうかなど、税務・労務の判断はしない。判断が要る質問には「確認してご連絡します」と書き、確認に必要なことを顧問先にたずねる ・必要書類は案内リストにあるものだけを書く。リストにない書類や期限は足さない ・メールの名前は記号(C社・Dさん・Eさん)に置きかえてあり、個人の情報は入っていない。下書きも記号のまま書き、名前や生年月日などを補わない ・この下書きは社労士が確認してから送る。下書きのあとに、社労士に確かめてほしい点を2つまで挙げる 【事務所の案内リスト:入社のとき】 ・本人に書いてもらうもの:事務所の「入社連絡票」 ・本人から預かるもの:基礎年金番号がわかるもの、雇用保険の被保険者証(前の勤め先で入っていた場合) ・会社で用意するもの:労働条件通知書(雇用契約書)の写し ・事務所への提出:入社日までに(写真・スキャンで可) ――――― ここから例 ――――― 件名:来週からパートさんが入社します/差出人:C社 総務 D いつもお世話になっております。C社のDです。 来週の月曜日から、パートのEさんが1人入社します。 週4日、1日6時間くらいで働いてもらう予定です。 前の会社でも働いていたそうです。 こちらで何を用意して、Eさんに何を書いてもらえばよいでしょうか。 あと、パートでも社会保険に入るのか、教えてください。 お忙しいところすみませんが、よろしくお願いします。
ここから先を、仕組みにする
試して手ごたえがあったら、毎日の仕事で回る形にします。ここが伴走でお手伝いする部分です。
- 過去のメールから回答例集を作り、事務所のいつもの言い方で下書きが出るようにする
- 入社・退社・扶養・出産など、手続きごとの必要書類の一覧を表にして、指示文に組み込む
- AIに入れてよい情報の線引きと記号への置きかえ方を事務所の決まりにし、顧問先への説明文も用意する
- 届いた書類の一覧を必要書類の表と照らし、不足の候補と催促文の下書きを出す流れにする
仕組みを噛み砕くと
イメージとしては、事務所の過去のメールを全部読んだ新人の職員さんが、返事の下書きを用意してくれるようなものです。ただし、この職員さんは法令の最新の改正や、顧問先ごとの事情までは知りません。判断して返すのは、いつも資格者です。
仕組みは4つの部品でできています。
| 部品 | 中身 | 誰が作る・使う |
|---|---|---|
| 回答例集 | よくある質問と、事務所として返してきた答え(名前は伏せる) | 最初に伴走者が過去のメールから整理し、所長が確かめる |
| 必要書類の一覧 | 入社・退社・扶養・出産などの手続きごとに、必要な書類と期限 | 所長または職員が作り、制度が変わるたびに見直す |
| 入力の決まり | AIに入れてよい情報・入れない情報と、記号への置きかえ方 | 所長と伴走者が最初に決め、全員が守る |
| 記録の型 | 面談記録・電話メモの決まった形式 | 伴走者が今の書式に合わせて作る |
使うときの流れは次のとおりです。
- 入力:電話や面談のメモ(名前は記号に置きかえる)、届いた書類の一覧
- AIがやること:回答例集と必要書類の一覧をもとに、回答・案内・催促の文の下書きを作る。面談メモを記録の形に整える
- 人が確認すること:内容が法令や制度に合っているか、顧問先の事情に合っているか、言い方が適切か
- 出てくるもの:資格者が確かめた回答メール、案内文、面談記録
いちばん大事なのは、AIに入れる情報を最初に決めておくことです。個人情報保護委員会は、本人の同意なく個人データを含む指示を生成AIに入力し、その個人データが応答の出力以外の目的で扱われる場合、個人情報保護法の規定に違反する可能性があるとして、提供事業者が機械学習に利用しないことなどを十分に確かめるよう求めています2。AIを使うときの決めごと全体は、AIを使うときの注意点のガイドにまとめています。
進め方の例(小さく始める)
ステップ1 入力の決まりをつくる(1〜2週目)
最初にやるのは、道具選びではなく線引きです。AIに入れてよい情報と入れない情報、記号への置きかえ方、顧問先への説明の仕方を、所長と伴走者で決めます。使うのは、入力した内容が学習に使われない設定の法人向けプランです。
ステップ2 回答例と必要書類の表をつくる(3〜4週目)
過去のメールから、よく聞かれる質問と事務所の答えを30〜50件ほど選び、名前を伏せて回答例集にします。手続きごとの必要書類の一覧も、ここで表にします。伴走者が下書きし、所長が中身を確かめます。
ステップ3 案内メールから使い始める(2ヶ月目)
判断の要素が少ない、入社・退社の必要書類の案内から使い始めます。AIの下書きと、所長がいつもどおり書いた文を見比べ、指示文を整えます。慣れてきたら、書類の不足確認と催促文に広げます。
ステップ4 面談記録と職員への引き継ぎ(3ヶ月目以降)
面談の音声メモを記録に整える使い方を加えます。回答例集と記録が事務所の共有の資料になり、職員が下書きを作って所長が確かめる形に移れます。
ここまでを、高額な専用システムを入れるのではなく、今のメールと共有フォルダの形を活かして作ります。電話の負担そのものを減らす工夫は、電話・問い合わせ対応の悩みのページもご覧ください。
気をつけたいこと・AIに任せないこと
- 守秘義務を負う仕事であることは変わりません。 社会保険労務士法は、開業社会保険労務士などが、正当な理由がなくて業務に関して知り得た秘密を他に漏らしたり盗用したりしてはならず、その立場でなくなった後も同様としています3。税理士法と行政書士法にも、秘密を守る義務が定められています45。AIを使っても、顧問先の秘密を守る責任は資格者と事務所にあります。名前や個人番号は入れず、記号に置きかえて使います。
- 専門の判断は資格者が行います。 AIは法令の改正を知らなかったり、もっともらしい間違いを書いたりします。顧問先に返す前に、必ず資格者が確かめます。会計ソフト会社が公開した一人税理士の事例ページでも、「AIのアウトプットに対するチェックと最終判断は、必ず人が行うべきです。」と書かれています6。
- 資格者にしかできない業務の線引きに気をつけます。 たとえば国税庁は、納税者の依頼を受けて行う税務代理、税務書類の作成、税務相談は税理士業務とされ、行えるのは税理士、税理士法人、国税局長に通知をした弁護士・弁護士法人に限られると説明しています7。社労士事務所で税の質問を受けたときに、AIの答えをそのまま伝えることはしません。
- 業界の指針を確かめます。 税理士の世界では、日本税理士会連合会のデジタル・システム委員会が、2026年9月に「税理士事務所のためのAI・クラウド活用ガイドライン」(Ver1.0)を策定しました8。TKC全国会の基本方針は、AIサービスの利用にあたって「税理士法」と「個人情報保護法」の定めに準拠する必要があるとしています9。そのうえで、関与先の同意を得たうえで利用すること、出力結果の正確性を必ず確認し、最終判断は税理士が行うことを挙げています9。社労士や行政書士の会の生成AIの指針は、今回調べた範囲では見つかっていません。
具体的な対応は、所属の会や所管の窓口、専門家にご確認ください。
伴走者がお手伝いすること
- AIに入れてよい情報・入れない情報の線引きと、記号への置きかえ方の決まりづくり
- 顧問先への説明文(AIの使い方と情報の扱い)の案づくり
- 過去のメールからの回答例集と、手続きごとの必要書類の一覧づくり
- 案内・催促・面談記録の下書きを作る指示文づくり
- 職員への使い方の説明と、使い始めてからの調整
士業の事務所での使い方は、業種ページにまとめています。
参考にした資料
-
全国社会保険労務士会連合会 社会保険労務士総合研究機構「2024年度 社労士実態調査」調査結果(詳細版)(2024年11月) https://www.shakaihokenroumushi.jp/Portals/0/doc/nsec/souken/2024/202411_2024srchousa_shousai.pdf ↩
-
個人情報保護委員会「生成AIサービスの利用に関する注意喚起等(別添1)」(2023年6月2日) https://www.ppc.go.jp/files/pdf/230602_alert_generative_AI_service.pdf ↩
-
e-Gov法令検索「社会保険労務士法」(昭和四十三年法律第八十九号)第21条(秘密を守る義務) https://laws.e-gov.go.jp/law/343AC1000000089 ↩
-
e-Gov法令検索「税理士法」(昭和二十六年法律第二百三十七号)第38条(秘密を守る義務) https://laws.e-gov.go.jp/law/326AC1000000237 ↩
-
e-Gov法令検索「行政書士法」(昭和二十六年法律第四号)第12条(秘密を守る義務) https://laws.e-gov.go.jp/law/326AC1000000004 ↩
-
freee株式会社「スタッフ0人、顧問先60社、17時退勤。一人税理士が実践する「責任あるAI」」(税理士・会計事務所向け事例ページ) https://adv.freee.co.jp/case/hatakeyama-2026 ↩
-
国税庁「No.9204 にせ税理士にご注意」(令和8年4月1日現在法令等) https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/osirase/9204.htm ↩
-
日本税理士会連合会「税理士事務所のためのAI・クラウド活用ガイドラインの策定について」(会員向けお知らせ、2026年9月30日) https://www.nichizeiren.or.jp/category/member/member_news/ ↩
-
TKC全国会「AIの活用に関する基本方針および会計事務所における必要な対応」(2026年6月3日) https://www.tkc.jp/news/2026/20260603/ ↩ ↩2